ヘリオガバルスのバラ 1888
時代がBC(キリスト以前=紀元前)からAD(キリスト以後=紀元後)に変わり、ローマの権勢が盛んなころには、「バラに伏す」という言葉は贅沢な暮しの代名詞となったと言われます。連日バラの花びらに埋もれて宴会が行われたり、バラのお風呂に入ったり、という贅沢のかぎりを尽くしたようです。
この頃の様子を描いたものに『ヘリオガバルスのバラ』という絵画があります。アルマタデマという画家が後世に描いたものですが、バラの花に埋もれて楽しんでいる様子が表されています。こうしたものを見ても、これだけのバラを毎日提供していく蔭にはどれだけのバラの畑があったことか、そして栽培の技術が高かったであろうことや、栽培者の苦労は大変なものであったろうことを思わされます。
ポンペイ・黄金の腕輪の家、壁画のバラ
ローマ時代の初期にはプリニウスという博物学者がおり、『博物誌』を著しています。ここには当時のバラの種類、栽培方法から香料の採り方、はては薬用としての利用法など、さまざまな分野からバラについて記述をしています。
また、ローマ時代のものとして有名なポンペイの遺跡があります。
ポンペイは79年に噴火したベスビオ火山の灰で埋もれてしまった町です。発掘されたポンペイの遺跡のひとつに「黄金の腕輪の家」と呼ばれる家があります。この家の庭に面した部屋の壁には、そのまま庭の延長であるように、木や草花が描かれています。その中には真っ赤なバラが描かれています。当時すでに家庭でも庭でバラを楽しんでいたことが窺われます。
ステファノ バラ園の聖母子?
その後ヨーロッパはキリスト教が支配することになり、バラはマリアの象徴となって修道院の庭で栽培されるようになり、絵画もまた聖母子や聖書を題材にしたものが多くなり、そのような中にバラがたくさんちりばめられています。